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きもの草子二枚め[真夏の雪]
「もう今日はいいから帰れ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
外での打ち合わせの帰り、夏の太陽はまだまだ高く、仕事は山積。
「早く帰って寝て、眉間のシワとってこい」

がーん、って音が聞こえた。
融通のきかない上司と、言われたことしかやらない新人との板挟みで、キリキリしながら仕事を片付けていたのは、眉間にシワを寄せながら遅くまで残業していたのは、あなたの役に立ちたいという思いがあったからなんだけど。

ゆらゆら陽炎のたつ中、よろよろと歩いていた。
バタバタと書類を扇子がわりにあおぐおじさんも、シャツを大きくはだけた若者も、熱気で輪郭が溶けだしたように滲んで見える。
自分も半分くらいスライム化してる気分…

その時、目前を横ぎる人物に知らず、視線が吸い寄せられた。濃紺のきもの姿のその女性は、暑さに溶解した空気の中、一人、違う世界の住人のようにくっきりとした輪郭を保ち、うんざり顔の人々の中、唯一、すうっ、とした眼差しで今にも微笑みそうな口元のまま、滑らかに歩を進めていく。



自然と注目した後、その人が身内であることに気づいた。
「叔母さん」
「あら、どうしたの」
叔母は、三味線の師匠をしている。だからきもの姿は見慣れているつもりだったのに、思わず見とれていた。

「雪の結晶なんだね。夏なのに」
稽古帰りだという叔母と連れ立って歩きながら言った。きものの柄は季節と合わせなければいけないのではなかったっけ?でも近くで見ると薄い、透ける生地の紺色のそのきものには、小さな白い雪の結晶が星のように散らされていた。
「雪輪、っていうのよ。涼を呼ぶ雪輪の模様は、夏に着てもいいの」
「ふーん。暑くないの?」
「そりゃ、人並みには暑いわよ。でもせっかく涼しげな柄を着ても、ゼェゼェ暑がっていたら見苦しいじゃない。自分が良くても、見る人が不快になるような格好はしちゃだめよ」

あ、と思った。
見苦しい、か…

「ねぇ、叔母さん。ビール飲んでいこうか」
誘うと上戸の叔母はうれしそうに笑った。
「あら、いいわね。九段会館にしましょうか。屋上でビアガーデンやってるのよ」

すぐさま提案して先導する叔母につきながら、あーあ、と思った。まだまだだなぁ、自分…

目の前には小さな雪の結晶がちらちら舞って、溶けかけていた心がほんの少し固まった気がした。
author:mayudama, category:●『きもの草子』, 23:44
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